【シリーズ①】受験勉強のためだけに塾に通うのはもったいないのか
最近、こんな言葉を耳にすることがあります。
「受験勉強のためだけに塾に多額の費用をつぎ込むなんてもったいない」
この言葉を聞いたとき、
私は正直に言って「その通りだ」と思いました。
塾を運営している立場でありながら、
そう思うのです。
もちろん、受験には受験の対策があります。
問題の解き方や、試験で点数を取るための技術も存在します。
しかし、それだけのために学ぶのだとしたら、
その学びは学校を卒業したあと、どれほど役に立つのでしょうか。
私は時々、そんなことを考えます。
「解き方を教えて」と言う子どもたち
授業をしていると、子どもたちからよく聞く言葉があります。
「先生、解き方教えて」
この言葉の背景には、
・早く答えを出したい
・間違えたくない
・効率よく問題を解きたい
という思いがあります。
しかし、その結果どうなるかというと、
「問題を考える前に、解き方を探す」
という学習になってしまうのです。
例えば算数では、
割合 → 「く・も・わ」
速さ → 「み・は・じ」
といった覚え方があります。
もちろん、こうした整理の仕方にも意味はあります。
しかし、これだけを覚えてしまうと、
「なぜそうなるのか」
を考えないまま問題を解くことになります。
つまり、
分からないまま、反射的に解く
という状態です。
これは本来の「学び」からは、
かなり離れてしまっているように感じます。
問題文を読まない子どもたち
最近、気になることがあります。
問題文を最後まで読まない子が増えていることです。
問題を見ると、
文中の数字
問題の最後の部分
だけを見て、
「足すの?引くの?かけるの?」
と聞いてくるのです。
これは子どもが悪いわけではありません。
むしろ、今の学習環境がそうさせている面もあると思います。
学校のテストは時間制限があります。
塾でも、スピードや正確さが重視されます。
その結果、
ゆっくり考える時間
が失われてしまうのです。
忙しすぎる小学生
今の小学生はとても忙しいです。
学校に行き、宿題をし、塾や習い事に通い、
さらに家ではスマートフォンやタブレットに触れる時間もあります。
一日が予定で埋まっています。
しかし、本来「考える力」というものは、
余白の時間
の中で育つものです。
ぼんやりしたり、
遊びながら考えたり、
試行錯誤したり。
そういう時間が、子どもの思考を育ててきました。
塾の役割は何だろう
こうしたことを考えると、
私は「塾の役割」は何だろうと改めて考えます。
以前は、私の塾でも
「成績を上げる」
「偏差値の高い高校に合格する」
ということを前面に出していました。
しかし、長く子どもたちと関わるうちに、
少しずつ考えが変わってきました。
そして、今はこんな言葉を掲げています。
「学び方を学ぶ」
これが、私の塾のスローガンです。
「学び方」を取り戻す
学びとは本来、
問題を読み
想像し
試行錯誤し
自分で理解する
という過程です。
しかし今は、
解き方を覚え
パターンを当てはめ
早く答える
という学習になりがちです。
その流れの中で、
学ぶことの面白さ
が見えにくくなっているのではないかと思います。
そこで私の塾では、
子どもたちに少し違う学び方を体験してもらっています。
それが、次回紹介する
です。
次回に続きます。
新学期に向けて教室の体制を見直しています
4月からの新学期を前に、教室の体制を少し見直しています。
現在は中学生が中心で、高校生は少人数、小学生は数名という状況です。
これまで高校生の集団指導も行ってきましたが、生徒数の変化もあり、4月からは高校生の学習を土曜日の学習会に集約し、希望者には個別指導と合わせて指導していくことにしました。
空いた時間は、当面「完全個別指導」に充てながら、教室全体の運営を整えていく予定です。
学習塾として、生徒一人ひとりの学力をしっかり支えること。
これはこれからも変わらない大切な役割です。
その一方で、最近あらためて「教育とは何だろう」と考えることが増えました。
勉強を通して、子どもたちは何を学んでいくのか。
知識や技能を身につけることはもちろん大切ですが、それだけではない何かがあるのではないか、と感じることがあります。
■ 自分の国の歴史を学ぶ意味
私は、自分の生まれ育った国の歴史や文化を学び、先祖たちがどのように感じ、考え、行動してきたのかを知ることは、とても大切な学びだと思っています。
そして、現在を生きる私たちがそれを理解し、自分なりに感じ、考え、行動しながら、次の世代へと手渡していく。
そのような生き方の中に、人としての本当の幸福があるのではないかと思うのです。
■ 生かされているという感覚
多くの人や自然の恵みによって「生かされている」。
そのことに気づき、感謝の念を持ちながら、ものごとを考え、行動できる人。
私自身も、そうありたいと思っています。
■ 二宮尊徳という人物
そんなことを考えていたとき、日本のある人物のことを思い出しました。
江戸時代の農政家、二宮尊徳です。
薪を背負いながら本を読む少年の姿は、多くの人が一度は見たことがあるかもしれません。
■ 「報徳」という考え方
尊徳の思想の中心には、「報徳」という考え方がありました。
人は天地の恵みや祖先の働き、社会の支えの中で生かされている。
だからこそ、その恩に報いる生き方をする。
感謝の気持ちを忘れず、自分にできることを一つひとつ積み重ね、社会のために役立てていく。
尊徳の生き方には、そんな静かな力強さを感じます。
■ これからの共育塾
これからの共育塾や寺子屋ひこばえでは、このような人物の伝記も扱ってみたいと考えています。
先人の生き方に触れながら、自分はどう生きていくのかを考える。
すぐに答えが出るものではありませんが、そんな問いを持ちながら学ぶ時間もまた、教育の大切な一部なのではないかと思います。
■ おわりに
これからも学習塾としての役割を大切にしながら、少しずつ学びの幅を広げていきたいと思っています。
もちろん、日々の学習指導や受験対策にも、これまで通り丁寧に取り組んでいきます。
子どもたちが、自分は多くのつながりの中で生かされていることに気づき、感謝の気持ちを持ちながら、自分の人生を歩んでいく。
そんな学びの場を静かに育てていきたいと思います。
学校の“荒れ”の奥にあるもの
学校の“荒れ”の奥にあるもの
― 生徒との対話から見えてきたこと
生徒との何気ない会話から
昨日、新しく中学三年生になる生徒と話をしていました。
塾では授業の合間などに、生徒たちが学校の様子や日常の出来事をよく話してくれます。そんな何気ない会話の中から、今の学校の空気が見えてくることがあります。
その生徒は、最近の学校の様子についてこんな話をしてくれました。
「新中3は落ち着いてきたけれど、
新中2は荒れている。
そして、
来月中1になる学年はかなり大変らしいです。」
学校で起きていること
詳しく聞いてみると、授業中に暴言が出たり、教室の中を歩き回る生徒もいるそうです。
また、スマートフォンへの依存もかなり深刻だと言います。
本人たちも「このままではいけない」と感じているようですが、なかなかやめることができない。そんな葛藤を抱えている生徒もいるようです。
さらに最近では、いじめの問題が裁判にまで発展するケースもあります。こうした問題は長期化し、関わる人たちにとって大きな負担となります。
背景にある家庭の問題
こうした話を聞いていると、学校の「荒れ」という現象の背景には、学校だけではなく家庭の問題もあるのではないかと感じます。
実際、塾で生徒と面談をしていると、家庭での悩みを打ち明けてくれることがあります。
昨日も、二人ほどの生徒が家庭での苦しさを話してくれました。
もちろん、私は問題を解決してあげられるわけではありません。ただ話を聞くことしかできない場合も多いのですが、それでも自分の気持ちを誰かに話すことで、少し気持ちが軽くなることもあるようです。
多くの子どもたちが、何らかの悩みを抱えながら日々を過ごしているように感じます。
それぞれの子どもが持っている力
しかしその一方で、子どもたちを見ていて気づくことがあります。
それぞれの子どもが、それぞれの「持ち味」を持っているということです。
勉強が得意でなくても、人の気持ちをよく汲み取ることができる子がいます。
見ていて思わず感心するような絵を描く子もいます。
また、自分の考えを分かりやすく伝え、周囲の雰囲気を明るくする子もいます。
人は皆、それぞれ違った力を持っているのだと感じます。
本当に伸びる子の共通点
長年、生徒たちを見てきて思うことがあります。
本当に大きく伸びていく子には、ある共通点があります。
それは、自分のやりたいことが分かり、その実現に向けて主体的に考え、行動できることです。
そのような力が芽生えてくると、不思議なことに学校や家庭の状況に振り回されなくなっていくように見えます。もちろん、その過程では多くの苦しみや葛藤もあります。しかしそれを乗り越え、自分の人生を歩み始める人もいます。
ある元生徒のこと
実際、私の塾にもそのような生徒がいました。
母親からの強い期待やプレッシャーの中で、中学・高校時代を過ごした生徒です。
なんとか親の期待に応えようと努力を続けていましたが、大きな挫折も経験しました。
しかし現在、その生徒は自分の道を見つけ、海外でいきいきと人生を歩んでいます。
今でも時々塾に来たり、メールのやり取りをしたりしています。冗談半分でしょうが、「この塾を継がせてください」と言ったこともありました。
教育の成果は、すぐには見えないことが多いものです。
しかしこうして卒業した生徒が、自分の人生を歩んでいる姿を見ると、教育という営みの意味を改めて感じます。
これからの塾の姿
私が思い描いているこれからの塾の姿は、生徒たちが自ら問いを発し、その問いを出発点として主体的に学んでいく場です。
塾の中だけではなく、地域とも関わりながら様々な問題に取り組んでいく。
そこでは大人も子どもも一緒に学び、行動していきます。
私自身も、その中に混じって共に学び続けていきたいと思っています。
子どもたちがそれぞれの持ち味を生かしながら、自分の人生を主体的に歩んでいく――そんな学びの場を、これからも大切に育てていきたいと思います。
なぜ今、子どもたちに古事記を伝えるのか
私がまだ幼稚園に通っていた頃、
園で紙芝居を見せてもらいました。
その紙芝居は、
日本の神々の物語――古事記でした。
その中でも、
今でも記憶に残っている場面があります。
イザナギが亡くなった妻イザナミを追いかけて、
黄泉の国まで行くというお話です。
黄泉の国で再会した二柱。
しかし「決して姿を見てはいけない」と言われていたにもかかわらず、イザナギは思わずその姿を見てしまいます。
そこから物語は大きく動き出します。
恐ろしくもあり、不思議でもあり、子どもながらに強く印象に残ったことを覚えています。
どんな絵だったのか、どんな言葉だったのか、細かいことは覚えていません。
しかし、その物語の雰囲気は、今でも心のどこかに残っています。
それから長い年月が過ぎ、大人になって改めて古事記を読むと、そこには単なる昔話ではない、深い世界が広がっていることに気づきました。
古事記には、日本人がどのように世界を感じ、どのように生きてきたのかという精神の源流が描かれているように思います。
だからこそ今、子どもたちにもこの物語に触れてほしいと感じています。
日本に伝わる神々の物語
日本には、長い時間をかけて語り継がれてきた物語があります。
それが『古事記』です。
古事記は、日本に伝わる神々の物語をまとめた書物です。
そこには、国の始まりや神々の働き、そして人々の祖先につながる物語が描かれています。
「神話」と聞くと、どこか遠い昔の出来事のように感じるかもしれません。
しかし古事記を読んでみると、そこに登場する神々はとても生き生きとしていて、驚くほど人間味があります。
神々も失敗し、そして乗り越える
古事記の神々は、喜び、怒り、悩み、時には失敗もします。
そしてその失敗を乗り越えながら、新しい道を切り開いていきます。
例えば、国づくりのはじめの場面では、思うようにいかずに失敗する出来事も描かれています。
また、天照大御神が天岩戸に隠れてしまい、世界が暗闇に包まれるという有名な物語もあります。
しかしそのとき、多くの神々が知恵を出し合い、力を合わせて再び光を取り戻します。
このように古事記には、困難に出会いながらも、それを乗り越えていく神々の姿が描かれています。
だからこそ、この物語は読む人の心に深く響くのだと思います。
自然の中に神の働きを感じる世界観
古事記に登場する神々の多くは、山や川、海、風、火など、自然の働きと深く結びついています。
これは、日本人が古くから自然を単なる「資源」としてではなく、
大きな働きをもつ存在として感じてきたことを表しているのかもしれません。
自然の恵みに感謝し、目に見えない働きにも思いを向ける。
そのような感覚は、日本人の暮らしや文化の中に長く息づいてきました。
古事記を学ぶことは、単に昔の物語を知ることではありません。
それは、日本人がどのように世界を感じ、どのように生きてきたのかを知ることでもあります。
物語を通して、自分の心を見つめる
神々の物語を読むとき、大切なのは「正解」を覚えることではありません。
「自分はどう感じるだろう」
「この出来事をどう受け取るだろう」
そんなふうに、自分自身の心に目を向けることです。
同じ物語を読んでも、感じ方は人それぞれです。
だからこそ、互いの感じ方を聞くことで、新しい気づきが生まれます。
共育塾では古事記の授業を始めます
共育塾では、これから古事記の授業を始めます。
ただし、物語を覚える授業ではありません。
「これが正しい解釈です」
と教える授業でもありません。
古事記のエピソードを読みながら、
「自分はどう感じたのか」
「この神の行動をどう思うのか」
「もし自分がその場にいたらどうするだろうか」
そんなことを、みんなで対話しながら考えていきます。
共育塾では、このような対話を中心とした学びを大切にしています。
子どもも大人も一緒に学ぶ
古事記は、子どもだけの学びではありません。
むしろ、大人が読んでも多くの気づきや感動がある物語です。
神々の物語に触れながら、自然との関係や、人の弱さと強さ、
そして私たちがどのように生きていくのかを、ゆっくりと考えてみる。
そんな時間を、子どもたちだけでなく、
保護者の方や地域の大人の皆さんとも一緒に分かち合えたらと思っています。
神々の物語は、今を生きる私たちへの問い
遠い昔の神々の物語は、
今を生きる私たちにも、たくさんの問いを投げかけてくれます。
その問いを、子どもたちと一緒に考えていく。
共育塾で、そんな学びの時間を育てていきたいと思っています。
定員割れの時代にこそ、「本当の学び」を始めよう
定員割れの時代にこそ、
「本当の学び」を始めよう
高岡市福岡町の共育塾・塾長です。
富山県立高校全日制の競争倍率が発表されました。
一部を除き定員割れ。全体では0.89倍。
この数字を見て、
危機感を抱く方も多いのではないでしょうか。
「このままでは学力が下がるのではないか」
「競争がなければ子どもは頑張らなくなるのではないか」
確かに、その可能性はあります。
しかし私は、
少し違う見方もできるのではないかと思っています。
競争が強かった時代
これまでの高校入試は、
「受かるか落ちるか」という明確な競争でした。
だからこそ、
合格するために勉強する
点数を上げるために努力する
周囲に負けないために頑張る
という外からの動機が働いていました。
それは確かに力になります。
けれど同時に、
「なぜ学ぶのか」という問いは、
後回しにされてきたのかもしれません。
競争が弱まった今
定員割れが常態化すれば、
「そこまで無理をしなくてもよい」
という空気が生まれます。
成り行きに任せれば、
最低限しかしない
受け身になる
学力が下がる
という未来もあり得ます。
しかし、私は思うのです。
これは、問い直す好機ではないかと。
学びは、誰のものか
競争が弱まったとき、
私たちは初めて真正面から向き合うことになります。
「なぜ学ぶのか」
合格のためでもなく、
他人に勝つためでもなく、
学びは本来、
自分自身を広げる営みではないでしょうか。
もしそうであるならば、
今こそ
自律的な学習とは何か
本当に身につけるべき力とは何か
子どもたちの内側から立ち上がる動機とは何か
を考える時期に来ているのだと思います。
危機は、転換点になり得る
外からの圧力が弱まるとき、
学びは衰えるか、成熟するか。
分岐点です。
管理と競争で動かす時代から、
意味と納得で動く時代へ。
もし教育が変わるとすれば、
こうした静かな転換期から始まるのかもしれません。
共育塾が目指すもの
私は、この状況を
単なる「危機」として受け取るのではなく、
創造の入り口として捉えたいと思います。
合格がゴールではない。
点数が目的ではない。
自分の問いを持ち、
できないことをできるようにし、
学び続ける力を育てる。
それが、これからの時代に必要な学びだと信じています。
定員割れという現象の奥に、
時代の変わり目を感じています。
崩れるものがあるなら、
その後に何を立てるのか。
私たちは、その選択の場に立っています。
私は、創る側に立ちます。
皆さんは、どうお考えになりますか。








