和算文化と、共育塾という「場」の可能性
江戸時代、日本には少し不思議で、とても豊かな文化がありました。
それが「和算」と呼ばれる数学の世界です。
当時の数学は、今のように試験のためのものでも、職業のためのものでもありませんでした。
農民や町人といった庶民が、道楽として数学を楽しんでいたのです。
神社に「算額」と呼ばれる板を奉納し、
そこには解くのも難しい高等な問題が書かれていました。このブログの挿絵がそれです。
「解けるかどうか」よりも、
「この問題、美しいでしょう?」
そんな気配が漂う文化だったように思います。
学問と遊びと信仰が、自然に同じ場所にあった時代でした。
今、皆さんの、
「数学」という言葉
に対するイメージはどうでしょうか。
点数、偏差値、正解・不正解。
数学はいつの間にか、
「受験のために学ばなければならない」
「難しいもの」
になってしまったのではないでしょうか。
もちろん、それが必要な場面もあります。
でもその一方で、
考える楽しさそのものは、ずいぶん見えにくくなってしまったように感じます。
最近、私は数学の問題を解くのが楽しくて仕方がありません。
合同式や対称性、極値の問題などを考えていると、
「ああ、そうなるしかないんだな」
と、静かに腑に落ちる瞬間があります。
藤原直哉氏は
「数学は“神”を巧妙に隠している」
と語っていますが、この感覚はとてもよく分かります。
人が作ったというより、
世界の構造そのものに触れているような感覚。
数学には、どこか神的な魅力があります。
共育塾で目指したいのは、
こうした数学の「楽しさ」を味わえる場です。
うまく解けなくてもいい。
途中で止まってもいい。
「なんだかおもしろい」と
感じた瞬間が、いちばん大切。
共育塾は、教科を教える場所というより、
『知的な遊びが許される“場”』
でありたいと思っています。
それは、現代における
和算文化の再生なのかもしれません。
共育塾は、とても自由なプラットフォームです。
年齢や成績に関係なく、
子どもも大人も、
それぞれの問いを持ち寄り、共に考える。
「教える・教えられる」を超えて、
関わることで育つ場。
それが「共育塾」です。
江戸時代、神社の境内で行われていた和算の営みは、
実は未来の教育の姿だったのかもしれません。
答えを急がず、
構造を味わい、
考えることそのものを楽しむ。
そんな「知的で実践的な場」を、
これからの時代に、
もう一度育てていきたいと思います。
なぜ私は「当選しない一票」を投じたのか
――家族と子孫を思って、
選挙を自分ごととして考える
先日、期日前投票に行ってきました。
小選挙区、比例代表ともに、いわゆる「当選」に直結する選択ではありませんでした。結果だけを見れば「死票」と言われる類の一票です。
それでも私は、迷った末にその選択をしました。
それは、怒りからでも、反発心からでもありません。また、誰かにそれを勧めたいわけでもありません。
ただ今回は、
**「白紙委任はしない」**という意思と、
**「この考え方は必要だと思っている」**という意思を、制度の中で表現したいと思ったのです。
「どうせ死票」という言葉への違和感
選挙のたびに聞く言葉があります。
「どうせ一票じゃ何も変わらない」
「当選しないところに入れても意味がない」
確かに、私の一票で明日から政治が激変することはありません。
それは事実です。
でも、投票は本来、
勝ち馬を当てるための行為ではない
と私は思っています。
比例代表の一票は全国で集計され、
政党の得票率として残ります。
最高裁判官国民審査の一つひとつの印も、
「国民は見ている」という記録になります。
それは、すぐに結果が出るものではありませんが、
確実に「痕跡」として残る意思表示です。
盛り上がっているようで、動かない現実
今回も、投票所にはいつもより人が多いように感じました。ネット上でも、政治や選挙の話題は以前より目につきます。
それでも、ふたを開けてみると投票率は大きく伸びない。この光景は、前回の選挙でも感じたものでした。
ここには、
「無関心」という一言では片づけられない現実があると思います。
・自分が行っても変わらない
・誰がやっても同じに見える
・難しくて、正解が分からない
そう感じるのは、怠けているからではなく、
長い時間をかけて政治が“遠いもの”になってしまった結果ではないでしょうか。
「だれかが何とかしてくれる」という感覚
日本社会には、どこか
「だれかが何とかしてくれる」
という安心感と依存が同居しているように思います。
それは決して悪意ではなく、
これまで比較的安定した社会が続いてきた証でもあります。
けれど今、
安全保障、経済、人口、教育。
どれを取っても、次の世代にそのまま引き渡せる状況ではないと感じる場面が増えてきました。
そのとき初めて、
「これは本当に他人任せでいいのだろうか」
という問いが、自分の中に浮かびました。
家族と子孫を思うと、見え方が変わる
政治の話というと、
右か左か、賛成か反対か、
そういった対立軸に引き寄せられがちです。
でも、
自分の子ども、孫、
まだ顔も知らない子孫の世代のことを思うと、
見え方は少し変わります。
・この国は、
自分で決断できる状態を保てているだろうか
・恐怖や依存ではなく、
主体性を持って選べるだろうか
・「考える力」を次の世代に手渡せるだろうか
選挙は、その問いと向き合う数少ない機会の一つだと思います。
正解を選ぶ必要はない
誤解してほしくないのですが、
私は「この政党が正しい」「この考え方が唯一だ」
と言いたいわけではありません。
実際、私自身も迷いながら投票しています。
情報を集め、考え、それでも完全な確信など持てません。
それでも、
考えたうえで選ぶ
という行為そのものに、意味があると思っています。
白紙で委ねるのではなく、
自分なりの責任を引き受ける。
それだけで、選挙は他人事ではなくなります。
一票は小さいが、姿勢は残る
一票で、世界はすぐには変わりません。
でも、一票をどう扱ったかは、
自分の中に確実に残ります。
そしてその姿勢は、
言葉にしなくても、
子どもや周囲の人に伝わっていきます。
選挙を「イベント」ではなく、
「自分ごと」として引き受ける人が、
少しずつ増えていくこと。
それが、
この国の未来を静かに、
しかし確実に支える力になる。
私はそう信じています。
土のちからを味わう 〜生かされていることを思い出す時間〜
先日、菌ちゃん農法で育てられたニンジンをいただきました。
皮をむかず、そのままおろして口に運んだ瞬間、驚くほどの甘みと、フルーツのようなみずみずしさが広がりました。
同時に、じんわりとした“うまみ”も感じられました。
「これが、本来のニンジンの味なのかもしれない」
そんな言葉が、自然と心に浮かびました。
私たちは日常の中で、
野菜を「食材」として、効率よく、当たり前のように口にしています。
けれどこのニンジンを味わいながら、
大自然の大きな循環の中で、自分が確かに生かされている
そんな感覚を、久しぶりに深く実感しました。
土があり、微生物が働き、
時間をかけて育まれた命が、
今こうして自分の体をつくっている。
そのつながりを、舌と心で感じる時間でした。
共育塾での新しい挑戦
この春から、共育塾でも菌ちゃん農法に挑戦します。
まずは、塾の敷地内でのプランター栽培から。
そして、五位山地区にお借りしている畑で、
じっくりと土づくりにも取り組んでいく予定です。
今回の体験を通して、
この取り組みに向かうモチベーションが一気に高まりました。
子どもたちと、いっしょに
この活動には、
できれば小さな子どもたちにも参加してもらいたいと考えています。
・土に触れること
・芽が出るのを待つこと
・育った野菜を収穫し、味わうこと
その一つひとつが、
教科書では学べない、大切な学びです。
野菜の本来のおいしさを知ること。
そして、
自分たちは自然の循環の中で生かされている存在なのだ
ということを、体感として受け取ってもらいたい。
それはきっと、
「感動」や「感謝」という、心の根っこを育ててくれるはずです。
学びは、机の上だけにあるものではありません。
土の中にも、自然の営みの中にも、
そして、私たち自身の暮らしの中にもあります。
共育塾はこれからも、
共に感じ、共に育つ学びを大切にしていきたいと思います。
学びは、誰かと比べるものではない
学びは、誰かと比べるものではない
―― それぞれのリズムで育つということ ――
世界は今、大きな転換期を迎えています。
価値観は多様化し、「こうすれば正解」という道筋は、以前ほどはっきり見えなくなりました。
そんな時代だからこそ、
一人ひとりが自分の感覚を信じ、自分の歩幅で進む力がこれまで以上に大切になっていると感じています。
私たちはつい、
点数、順位、偏差値、進度――
「比べやすいもの」で子どもを見てしまいがちです。
けれど、本来「個性」とは、
比べるためにあるものではありません。
感じ方、考え方、興味の向き、歩く速さ。
それぞれが違っていて当たり前で、
そこに優劣はありません。
花が一斉に同じ日に咲かないように、
子どもたちにも、それぞれの“育つ季節”があります。
世界の流れを見ても、
これから必要とされるのは
「同じ答えを出せる人」ではなく、
違いを違いとして受け止められる人
自分なりの問いを持てる人
他者と調和しながら、自分の役割を見つけられる人
そうした在り方ではないでしょうか。
また、個性は、孤立するためのものではなく、
全体の調和の中でこそ生きるもの。
違いがあるからこそ、支え合え、補い合え、
新しいものが生まれます。
共育塾で大切にしているのは、
「人と違うこと」を直そうとすることではなく、
その子ならではの持ち味に気づくことです。
そして、大人の役割は、
その芽を急いで引っ張り出すことではなく、
比べず、急がせず、信じて見守ることだと思っています。
学びは競争ではありません。
誰かより早く行くことが目的でもありません。
その子が、その子のリズムで、
自分自身と向き合い、世界とつながっていくこと。
それこそが、これからの時代を生きる
本当の「学び」なのだと、私は感じています。
社会はどこから変わるのだろうか
社会はどこから変わるのだろうか
――ある日の国会中継を見ながら
最近、国会中継を見ていて、少し不思議な感覚を覚えました。
以前のような「とにかく反対」「足の引っ張り合い」といった光景だけでなく、
「どうすれば、より良い方向に進めるか」を模索するような議論が、わずかながら増えてきたように感じたのです。
もちろん、対立の政治が消えたわけではありません。
しかし、その中に、かすかな「調和」の気配のようなものを感じました。
それは、政治の変化というよりも、
社会の空気が少しずつ変わり始めている兆しのようにも思えました。
「別の世界」で起こっているような感覚
新党の結成や、メディアの報道、世論の動きを見ていると、
どこか「別の世界」で物事が進んでいるような感覚になることがあります。
同じニュースを見ているはずなのに、
どこか現実感が違う。
言葉が現実に追いついていない。
そんな違和感です。
もしかすると、私たちは今、
これまでとは違う価値観の世界に、少しずつ足を踏み入れているのかもしれません。
「利権」と「利他」のあいだで
社会がなかなか変わらない理由は何だろうか。
考えていく中で、私は「利権」という言葉に行き着きました。
「今だけ、金だけ、自分だけ」
こうした近視眼的な利己主義は、
政治だけでなく、私たちの日常の中にも存在しています。
もちろん、私自身も例外ではありません。
しかし、その対極にあるのが「利他」ではないでしょうか。
自分の利益だけでなく、
他者や社会のことを思う心。
「公」のために生きようとする姿勢。
私は、人間には本来、
この「利他」の心が備わっているのではないかと思っています。
子どもたちが教えてくれるもの
子どもたちを見ていると、
そのことを強く感じます。
子どもは生まれながらにして、
他者に共感し、助けようとする力を持っています。
大人の方が、むしろ子どもから学ぶべきことが多いのではないでしょうか。
社会の中で生きるうちに、
私たちは少しずつ「利他」を忘れてしまっただけなのかもしれません。
だからこそ必要なのは、
新しい価値観を押し付けることではなく、
本来持っていたものを「思い出す」ことなのだと思います。
「共に育つ」という教育
私が目指しているのは、
知識や点数だけを追い求める教育ではありません。
子どもと大人が、
共に学び、共に育つ場。
競争よりも共創を、
正解よりも対話を大切にする学び。
私はこれを「共育」と呼んでいます。
社会は、上から変わるのではなく、
下から、日常から、静かに変わっていく。
家庭での会話、教室での対話、
人と人との関わりの中にこそ、
社会を変える力が宿っているのだと思います。
私たちは何を思い出せるだろうか
政治の世界で起きている変化は、
もしかすると、その前兆に過ぎないのかもしれません。
利権から利他へ。
対立から調和へ。
競争から共創へ。
私たちは、いつから「利他」を忘れてしまったのでしょうか。
そして、それをもう一度思い出すことはできるのでしょうか。
その答えは、
遠い政治の世界ではなく、
私たち一人ひとりの日常の中にあるのだと思います。








